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ARTIST
サックス
生年月日 :
1926年9月23日
生まれ :
アメリカ合衆国 ノースカロライナ州 Hamlet
死没 :
1967年7月17日(40歳没)
主にテナー・サックスを演奏したが、活動最初期はアルト・サックス[1]、1960年代よりソプラノ・サックス、最晩年にはフルートの演奏も残している。活動時期は、1950年代のハード・バップの黄金時代から1960年代のモード・ジャズの時代、さらにフリー・ジャズの時代にわたり、それぞれの時代に大きな足跡を残した。
1940年代にチャーリー・パーカーらが確立した4ビート・バップ・ジャズのアドリブ方法論を、現代的に再構築した功績は大きい。コルトレーンの構築したアドリブ方法論は4ビート・ジャズだけでなく、ロックなど、他ジャンルのサウンドにもそのまま通用するものだった。このため、コルトレーンの影響は、他のプレイヤーにも及んでいる。
短い活動期間にも関わらず、アルバムに換算して200枚を超える多数の録音を残した。現在でも多くのジャズ愛好家たちに愛され、彼の残したレコードはほとんどが廃盤にはならずに(あるいは一旦廃盤になっても再発売される形で)、2012年現在でも流通し続けている。さらに、死後40年以上経過した現在でも未発表テープが発掘され、新譜として発表される状況が続いている。
略歴[編集]
前期(1958年まで)[編集]
13歳でクラリネットを始める。後にアルト・サックスに転向し、1946年よりプロとして活動開始。1949年にディジー・ガレスピーのバンドに参加し、その後テナー・サックスに転向。ほとんど無名のままいくつかのバンドを転々とした。レコーディングの機会にもあまり恵まれず、この時期のコルトレーンの録音はごくわずかしか残っていない。
1955年に、マイルス・デイヴィスのグループに入る。マイルスはすでに[注釈 1]ジャズの大スターであったため、マイルスバンドに抜擢[注釈 2]されたコルトレーンもその名前が知られるようになり、マイルスバンド以外のレコーディングの機会も多くなる。しかしこの時期のコルトレーンの演奏は決して評判[注釈 3]の良いものではなかった。
1957年に、一旦マイルスバンドを退団[注釈 4]。その後はセロニアス・モンクのバンドに加入し、モンクから楽理の知識を授かる[注釈 5]と共に音楽的修業に一層打ち込む。また、同時期に麻薬中毒も克服。同年3月に、マイルスバンド時代の同僚であったピアニストのレッド・ガーランドの紹介でプレスティッジ・レコードと契約[注釈 6]。5月には、初リーダー・アルバム『コルトレーン』の吹き込みを行っている。
同年7月に、ニューヨークのライブハウス「ファイブ・スポット」にモンクバンドとして出演。コルトレーンはこの月「神の啓示」を得たと語っている[注釈 7]。「神の啓示」が本当に意味するところは本人にしか分からないが、この月以前に録音されたトレーンの演奏はどこか不安定でぎこちなさが残っていたのに対し、この月以降に録音された演奏はどれもが自信に満ちたものに変わっており、本人の内面に何らかの大きな精神的変化[注釈 8]が訪れたものと考えられる。いずれにせよ、1957年7月は20世紀を代表する一人のジャズの巨人が誕生した月として記憶されるべき月となる。9月にはブルーノート・レコードにて初期の代表作『ブルー・トレイン』[注釈 9]を吹き込んでいる。
1958年、モンクの元を離れ[注釈 10]、マイルスバンドに再加入。マイルスはこの時期、コルトレーンをソニー・ロリンズと並ぶ2大テナー奏者として高く評価した。また、音楽評論家のアイラ・ギトラーは、同年『ダウン・ビート』誌において、音を敷き詰めたようなコルトレーンの演奏スタイルを「シーツ・オブ・サウンド」[注釈 11]と形容。以後、この形容は初期コルトレーンの奏法の代名詞となる。一方、コルトレーンのソロはいつも長かった[注釈 12]。また、常にフォルテッシモで速いパッセージばかり吹き続けたため、彼の演奏はぶっきらぼうで怒っているように聴こえたことから、Angry Young Tenor Man(怒れる若きテナーマン)と揶揄されることもあった(「怒れる若者たち(Angry Young Men)」のもじり)。
中期(1959年から1961年)[編集]
1959年、マイルスの『カインド・オブ・ブルー』収録に参加した。またアトランティック・レコードに移籍し、中期の代表作『ジャイアント・ステップス』を録音した。この頃から、単なるハード・バップ・テナー奏者から脱却すべく独自の音楽性を模索する試みが始まる。自作自演の曲が増え、また同じ曲の録音でありながら、異なるサイドメンを起用してテイクを重ねること[注釈 13]などを試行している。
1960年春、マイルスバンドを脱退した。その後マッコイ・タイナー、エルビン・ジョーンズらと自身のレギュラー・バンドを結成してツアーに出ている。10月には、自身のレギュラー・バンドで大規模なレコーディングを敢行した。このときのセッションからは『マイ・フェイヴァリット・シングス』、『プレイズ・ザ・ブルース』、『コルトレーンズ・サウンド(邦題:『夜は千の目を持つ』)』などのアルバムが発表されている[注釈 14]。アルバム『マイ・フェイヴァリット・シングス』のタイトル曲「マイ・フェイヴァリット・シングス」は、コルトレーンの最初のヒット曲となった。この演奏に現れる「3拍子+マイナー・メロディ+ソプラノ・サックス[注釈 15]」という組み合わせは、以後コルトレーンの定型パターンとして繰り返し用いられている[注釈 16]。またソプラノ・サックスは、コルトレーンに採り上げられたことを契機[注釈 17]に楽器としての魅力が広く認知され、以後ジャズ・フュージョン系のサックス奏者達の"必修科目"として盛んに用いられるようになる。
1961年、アトランティックを離れ、インパルス!レコードに移籍。3月にはマイルスのアルバム『サム・デイ・マイ・プリンス・ウィル・カム(邦題:『いつか王子様が』)』の録音にゲストとして参加[注釈 18]。その後、新進気鋭のリード奏者エリック・ドルフィーを自己のバンドに加えるとともに、アレンジャーとしても起用し、大型ブラスセクションによる録音に取り組む。この録音からはインパルス最初のアルバムとして『アフリカ・ブラス』『アフリカ・ブラス・セッション vol. 2』の2枚が発売された。その直後に、アルバム『オーレ!コルトレーン』も録音している。これはアトランティックから発売された。 また秋には、ニューヨークのライブハウス「ヴィレッジ・ヴァンガード」にほぼ連日出演したり、ヨーロッパツアーにも出ている。これらの演奏の様子は、後年『ライヴ・アット・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード』を初めとする数多くのライブ・アルバムで聴くことができるようになってきている。
後期(1962年から1964年)[編集]
1962年、エリック・ドルフィー退団。以後コルトレーンは、マッコイ・タイナー、ジミー・ギャリソン(ベース)、エルヴィン・ジョーンズというほぼ不動のメンバー[注釈 19]によるカルテットと共に活動、バンド全体が一体となって演奏を繰り広げるという表現方法を確立。コンサートでは、1曲の演奏時間が30分から1時間に及ぶこともざらであった。
このように、ステージでの演奏は激烈を極める一方だったが、レコーディング・スタジオではインパルス!レコードの看板アーティストとしてレコードの売り上げにも関心を示し、デューク・エリントンとの共演(『デューク・エリントン&ジョン・コルトレーン』、1962年録音)、スローバラードばかり取り上げた『バラード』(1962年録音)、ジャズ・ボーカルをメインに据えた『ジョン・コルトレーン&ジョニー・ハートマン』(1963年録音)のような企画物レコードの作製にも取り組んだ。
1964年、夭折したドルフィーの両親から遺品のバスクラリネットとフルートを譲り受ける。年末、『至上の愛』を録音。また1965年に入ると、コルトレーンのモード・ジャズは極限にまで達し、特定の調性にとらわれず、あらゆるスケールを縦横無尽に使うことによって「無調性音楽」の色彩が強くなっていく。
フリー・ジャズ期(1965年から1967年)[編集]
1965年6月、コルトレーンはついにアルバム『アセンション』を発表し、フリー・ジャズに傾倒する。コルトレーンはこの時期、マイルスと並んでジャズの指導者的地位にいたが、そのような権威ある人物がフリー・ジャズを支持したことは、それまでフリー・ジャズの音楽的意義を理解せず、その価値を認めようとしてこなかった保守的ジャズ・ファンに大きな衝撃を与えた。またコルトレーンは、同じテナー奏者の ファラオ・サンダースを加入させ、動のサンダースに対して静のコルトレーンという対比をうまく作り出すことに成功。コルトレーンのフリー・ジャズは激烈さの中に静謐さが同居するもので、瞑想的と表現されることが多い。
1965年頃まで、コルトレーンはサックスを吹く際ほとんどヴィブラート奏法を用いなかったが、晩年になると強烈ヴイブラート・ワークを用いる奏法に変化していく。同年12月にマッコイ・タイナーがバンドを離れ、アリス・マクレオド(1966年にジョンと結婚)が加入。1966年3月にはエルヴィン・ジョーンズも退団し、ラシッド・アリをドラマーとして加入させる。
1966年7月に来日。9都市を回るという大がかりなツアーであった。記者会見で「10年後のあなたはどんな人間でありたいと思いますか?」という質問に対し「私は聖者になりたい」と答えたというエピソードがある。 また、同記者会見にて「最も尊敬する音楽家は?」という質問に対し、オーネット・コールマンの名前を挙げたといわれる。
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