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ARTIST
トランペット
生年月日 :
1926年5月26日
生まれ :
アメリカ合衆国イリノイ州オールトン
死没 :
1991年9月28日(65歳没)
イリノイ州オールトン生まれ。翌年にイーストセントルイスへ転居。祖父はアーカンソー州に広い土地を持ち、父は歯科医[注釈 2]、母は音楽の教師という裕福な環境で育った。13歳の誕生日に父親からトランペットをプレゼントされ、演奏を始める。高校在学中の15歳のときにユニオン・カードを手に入れ、セントルイスのクラブに出演するようになる。当時のセントルイスにはアフリカ系アメリカ人の労働者の居住区が多く、ジャズライブが定期的に行われていた。そのためマイルスは多数のジャズプレイヤーを見て学んでいた。
18歳の頃マイルスは、セントルイスにビリー・エクスタイン楽団が来たとき、病気で休んだ第3トラッペッターの代役を務め、チャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピー[注釈 3]との共演を果たした。このときのことをマイルスは「バードとディズの演奏を聴いてても何が何だかさっぱりわからなかった」と語っている。彼はその後直ぐにニューヨークに出てジュリアード音楽院に入学(後、中退)。間もなくパーカーを探し当て、1年間同じ部屋で暮らしながら演奏を共にする。1945年、ライオネル・ハンプトンの楽団に所属していたハービー・フィールズの録音に参加。公式な初レコーディングである。1947年には、パーカーやマックス・ローチのサポートを得て、初のリーダー・セッションを行う。パーカーの元でのビバップからキャリアは始まったが、マイルスは新たな可能性を求め、1948年に編曲家のギル・エヴァンスやジェリー・マリガンらと出会う。ギルの協力を得て、後のウェスト・コースト・ジャズの興盛に多大な影響を与えた『クールの誕生』を制作。その後もギルとは度々共同制作を行う。
1950年代に入ると、J・J・ジョンソン、ソニー・ロリンズ、ホレス・シルヴァー、ジョン・ルイス、アート・ブレイキーなどと共演するが、麻薬の問題で一時演奏活動から遠ざかる。しかしマイルスは立ち直り、1954年プレスティッジ・レコードから発表した『ウォーキン』は高く評価され、ハード・バップのトップ・アーティストとしての地位を固める。1954年12月24日にはアルバム『マイルス・ディヴィス アンド モダン・ジャズ・ジャイアンツ』でセロニアス・モンクと共演する。両者は音楽に対する考え方が相容れなかったとされ、この共演は俗に「喧嘩セッション」と呼ばれていた。しかし実際の所、このセッションは演出上マイルスが吹くときにはモンクに演奏しないよう、マイルスが指示したというだけである。1955年、ジョン・コルトレーン、レッド・ガーランド、ポール・チェンバース、フィリー・ジョー・ジョーンズのメンバーで、第一期クインテットを結成。同年、ニューポート・ジャズフェスティバルにおいて、チャーリー・パーカー追悼のために結成されたオールスター・バンドに参加。このときの演奏がきっかけとなりコロムビア・レコードと契約。1956年に移籍第一作『ラウンド・アバウト・ミッドナイト』発表[6]。その一方で、プレスティッジとの間に残された契約を済ませるために、アルバム4枚分のレコーディングをたった2日間で行った。24曲、すべてワンテイクであったといわれる。俗に「マラソン・セッション」と呼ばれるが、連続した2日間ではなく、2回のセッションの間には約5ヶ月のブランクがある。これらの演奏は『ワーキン』『スティーミン』『リラクシン』『クッキン』の4枚のアルバムに収録され、プレスティッジはこの4枚を毎年1枚ずつ4年かけて発売した。また、1957年にはパリに招かれ、ルイ・マル監督の映画『死刑台のエレベーター』の音楽を制作した。映画のラッシュ・フィルムを見ながら即興演奏で録音したというのが伝説になっている。[7][8]。1958年にはキャノンボール・アダレイ[注釈 4]を加えて、バンドはセクステット(6人編成)になる。同年にはキャノンボールの『サムシン・エルス』に参加。また、レッド・ガーランドが退団したため、ピアノにビル・エヴァンスを迎える。ビルはバンドにクラシック音楽(特にラヴェル、ラフマニノフ)の要素を持ち込みマイルスに影響を与えたが、7ヶ月余りで脱退。ウィントン・ケリーが代わって参加した。1959年代表作の一つ『カインド・オブ・ブルー』を制作。その際にはビルを特別に呼び戻した。この作品でマイルスは、これまでのコード進行に頼る楽曲ではなくスケール(音列)を指標とした手法、いわゆるモード・ジャズの方法論を示した。この作品は革新的である以上に演奏の完成度が非常に高い。
1960年にジョン・コルトレーンがグループを脱退、他のメンバーも随時交替する。ここからしばらくメンバーは固定されず(この時期ソニー・スティット、ソニー・ロリンズ、J・J・ジョンソンらと再び共演している)、作品的にも目立ったものは少なく、ライブレコーディングが中心となっていく。1963年ジョージ・コールマン、ハービー・ハンコック、ロン・カーター、トニー・ウィリアムスがグループに参加。サックスのコールマンがサム・リヴァースに変わって間もなくの1964年7月に初来日した。同年秋にはウェイン・ショーターを迎え、マイルス、ウェイン、ハービー、ロン、トニーという第二期クインテットが確立。1968年前半までこのメンバーで活動した。途中マイルスが健康状態の悪化で活動の休止を余儀なくされる時期もあり、録音された作品はあまり多くは無かったが『E.S.P.』『マイルス・スマイルズ』『ソーサラー』『ネフェルティティ』など優れたスタジオ・アルバムと数枚のライブ・アルバムを発表した。特に前述の4作品は60年代4部作と呼ばれ、50年代のマラソンセッション4部作と並んで人気が高い。演奏面でも作曲面でも4ビートスタイルのジャズとしては最高水準まで昇りつめた5人は、「黄金クインテット」と呼ばれる。マイルス自身もこのクインテットを「偉大なバンド」と評しており、4人から学んだことも多かったと語っている。1968年、8ビートのリズムとエレクトリック楽器を導入した、『マイルス・イン・ザ・スカイ』を発表。この年の後半には、リズム・セクションがチック・コリア、デイヴ・ホランド、ジャック・ディジョネットに交替。このメンバーによる録音は長らく公式には発表されなかったため、ファンの間では「幻のクインテット」「ロスト・クインテット」と呼ばれていたが、マイルスの死後1993年になってようやくライヴ盤『1969マイルス』が発表され、黄金クインテットに劣らない高水準の演奏がようやく日の目を見ることになった。1969年、ジョー・ザヴィヌル、ジョン・マクラフリンの参加を得て、『イン・ア・サイレント・ウェイ』を制作。さらに翌年にはLP2枚組の大作『ビッチェズ・ブリュー』[注釈 5]を発表する。3人のキーボード、ギター、ツイン・ドラムとパーカッション、という大編成バンドでの演奏で、重厚なリズムとサウンドは70年代のジャズの方向性を決定づけた。この時期、マイルスはジェームス・ブラウンやスライ・ストーン、ジミ・ヘンドリックスなどのアルバムを好んで聴いていたと伝えられており、そのファンクやロックの要素を大胆にジャズに取り入れた形となった。1970年代1971年1970年代に入るとマイルスはファンク色の強い、よりリズムを強調したスタイルへと発展させ、ジャズ界でブームとなりつつあったクロスオーバーとは一線を画する、ハードな音楽を展開する。マイルスのエレクトリック期とは、この時期を指すことが多い。マイルスは、次々にスタイルを変えながらスタジオ録音とライヴを積極的に行ったが、公式発表された音源は必ずしも多くはなく、後に未発表音源を収録した編集盤が多く発売されることになる。1972年公式に発表した『オン・ザ・コーナー』は、ファンクを取り入れたことが話題となる問題作であった。しかし、クロスオーバー・ブームで、かつてのメンバーのハービー・ハンコックやチック・コリアなどがヒット作を出す一方で、こういったマイルスの音楽はセールス的には成功とはいえなかった。1973年と1975年に来日。この頃から健康状態も悪化、75年の大阪でのライヴ録音『アガルタ』『パンゲア』を最後に、以降は長い休息期間となる。1980年代1980年に活動再開。ドラムのアル・フォスター以外はビル・エヴァンス(サックス)、マイク・スターン、マーカス・ミラーなど、当時それほど有名ではなかったフュージョン系の若手がメンバーとなった。1981年に復帰作『ザ・マン・ウィズ・ザ・ホーン』制作。10月には新宿西口広場(現在の東京都庁)で来日公演を行った。この模様は、後日NHKテレビで放映され、ライヴ盤『ウィ・ウォント・マイルス』にはその一部が収録されている。以降、83年、85年、87年、88年、90年と度々来日した。1980年代はフュージョン、ポップ・ジャズ色を強め、81年の「マン・ウィズ・ザ・ホーン」はフュージョン色が濃かった。85年に制作された『ユア・アンダー・アレスト』ではマイケル・ジャクソンの「ヒューマン・ネイチャー」やシンディ・ローパーの「タイム・アフター・タイム」などを取り上げた。86年、長年在籍したコロンビアからワーナー・ミュージックへ移籍。同年発表の『TUTU』は、マーカス・ミラーのプロデュース(1曲のみジョージ・デュークのプロデュース)で、バンドを従えずあらかじめ出来上がったトラックの上にトランペットをかぶせるポップス・ミュージシャンのような制作スタイルを取り入れた。また、プリンスなどにも接近し、いくつかのセッションや録音をした他、ペイズリーパークでのプリンスのライヴにゲスト出演している。また、コーポレート・ロックのTOTOによるアルバム『ファーレンハイト』にも、ゲストとして参加。以降も、チャカ・カーンやスクリッティ・ポリッティなど、ジャズ以外のジャンルの作品にも多くゲスト参加した。
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