母はチョクトー族、父はチェロキー族とアフリカ系アメリカ人の子供。[1]家族バンドで歌い踊り育ったが、12歳でピアノ、14歳でダブルベースを始める。他人のベース演奏が気に入らず、独自の奏法を始めた。ミルト・ヒントンなど、まわりからは称賛されたが、1941年、「これじゃ食えない」と思い引退。数か月後、ヒントンに会い音楽に連れ戻された。1942年、Charlie Barnetバンドに加入、1943年、コールマン・ホーキンスと『The Man I Love』を録音し、一般の耳目を集める。この時期アール・ハインズやベン・ウェブスターとも録音。1943年にディジー・ガレスピーとバップ・バンドを始める。1945年、ホーキンスとハリウッドに行き、ジャズのサントラで有名なミステリー映画『The Crimson Canary』に出演した。1945~1948年はデューク・エリントン楽団で、1949年にはウディー・ハーマン楽団で演奏。1950年代は自身のバンドで活動。リーダーとしてキャノンボール・アダレイを発掘。
ジャズのチェロ・ソロ演奏の創始者。1949年、腕を骨折し、ベースが弾けなかったのでチェロを試した。1950年チェロ初録音。1950年代にDebut、Bethlehem、ABC Paramountなどに録音。1958年にコペンハーゲンに移住してからはヨーロッパでも録音。チャールス・ミンガスとともに、ベース奏者のバンド・リーダーとしては最も録音が多い。1960年にデンマーク・コペンハーゲンでポリオに似た感染症で死去。